そのモノサシは誰のもの?社会的証明という諸刃の剣

あなたは米国首相の入国規制令に賛成ですか?

人がある物事に対して肯定的(否定的)な態度をとるとき、その理由としては以下の2つが挙げられます。

  • ①自らが肯定的(否定的)な印象・考えを持っている場合
  • ②社会通念として否定的(肯定的)な態度をとらないほうが懸命と考えられる場合

①は説明の必要などありません。肯定的に考えているのだから、肯定的な態度を示しているだけです。 ②は自身が所属する「コミュニティにおける常識」から尤もらしい態度をとっている場合です。 つまり、「コミュニティの大半が『良し』とするのだから、きっとそれが『良い』のだろう」と価値判断(モノサシ)を代替しているのです。 名著「影響力の武器」では②のような状況を指して「社会的証明」として紹介しています。

今日の情報化社会において、「社会的証明」は大変便利な手段です。 不確かな状況においてもなお、我々は周囲の判断を参考にすることで大まかな方向性を掴むことができるのです。 ただし注意しなければならないのは、ときとして「社会的証明」は我々の平衡感覚を狂わせることがあるということです。

例えば冒頭の入国規制のように、(少なくとも日本人の大多数に限っては)自分とかけ離れたトピックに関して他から判断基準を借用したところでさほど問題になることはありません。 ところが、個人の人格と密接に結びつく話題に関して「社会的証明」を適用し、たとえ一時的だとしても他者のモノサシを借用することは、自己アイデンティティを否定することにも繋がりかねません。

次の問いに対して、あなたはどう考えますか?

あなたは善い人間ですか?あなたは悪い人間ですか?

「友人にはよく優しい人だと言われるし、優しい人間は概して善い人間だから、私は善い人間だ」 例示としてはお粗末かもしれませんが、これに類する思考をしたのであれば危険サインです。 これはまさに「社会的証明」を自己認識に適用したケースに他なりません。 自分の外側に存在するモノサシを使って、自己認識を形成しているのです。

「私はこの世界の中心なんだから自分は善い人間にきまっている」 分かりやすいように、こちらもあえて極端な例を引き合いに出しました。 この例のように、自分のモノサシを使って自己認識を規定することができる人は、そうでない人と比べて精神的健康に恵まれているかもしれません。 自らに外在するモノサシでない以上は、誰かに押し付けられることもなければ、意志と反して変化することもないからです。

「影響力の武器」では、「『社会的証明』は不確実な状況おいてより強く作用する」と述べられています。 未経験な領域でのできごとや、不完全な情報しか得られていないような状況では、我々はついつい周囲の様子を伺い「社会的証明」を適用しようとしてしまうのです。 もしかしたら、入社間もない新人社員が精神に不調をきたしてしまう要因の一つも、ここにあるのかもしれません。

毎日精一杯働いても仕事がなかなか終わらず、残業ばかりの日々を過ごす一年目の社会人を考えてみます。 彼以外の入社同期は、3人とも毎日きちんと仕事をこなして定時に退社を済ませています。 「社会的証明」の罠に嵌ったこの新卒社員は、例えどれほど違和感があっても、例えどれほど不条理を感じていても、おそらく声を上げることはないでしょう。 「社会的証明」によって、定時であがる他の同期3人こそ「正常」であって、自分は「異常」であると示されているからです。

程度の差はあれど、我々の多くは人生の節々においてこのような状況をしばしば体験してきているはずです。 幸い、この状態はしばらくすれば自然と解消されます。 環境に慣れるにつれて不確実性が少なくなり、一方で自らの考えが深まり、「社会的証明」に頼る必要がなくなるからです。

とはいえ状況を楽観視してばかりもいられません。 なぜなら「社会的証明」は多くの場合で無意識的に利用されるからです。 「社会的証明」に頼ってしまったときには。「何に対して社会的証明を適用したのか」という部分に注意を払うことで、絶えず平衡感覚を失わないようにしなければならないのです。

社会的証明=借り物のモノサシを盲信して自己アイデンティティを否定しつづければ、やがて自我は弱まり精神は衰弱してしまいます。 一方で、自分のモノサシを自分の外側世界に押し付けてばかりいては、社会不適合者のレッテルを貼られてしまうこともあるかもしれません。