与えること、まずはそれから。

与えることは、自分と世界との接点をつくる大切な営みです。
与えることによって、自分で自分自身の存在を感じることができます。

目まぐるしく過ぎて行く日常の中で、我々はときとして自分と世界との境界を見誤ってしまいます。
「どうしてあなたは○○しないの?■■すべきだよ」
「△△が忙しくて●●してる時間がないんだ」

自我が肥大化して、他者を思いやることができなくなってしまうこともあります。
あるいは逆に、世界に圧倒されて自分自身をひどく矮小化してしまうこともあります。
そしていずれの場合でも、我々の心には大きな負担がかかります。

他者に自分を重ねすぎて、思い通りにいかないと悲しんだり、怒ったりして感情に突き動かされることもあります。
また、自分ではこの状況をどうにもできないと自信喪失し、途方も無い不安や孤独感に襲われることもあります。

だからこそ、我々は自分と世界との境界に関して注意を向けなければいけません。
そしてその一助となるのが「与えること」なのです。
我々は与えることによって世界と能動的に向き合うことができます。

一般に二者の関係においては、一者が能動的、もう片方が受動的であると見ることができます。
自分と世界との境界のバランスが崩れている状態は、別の見方をすれば、我々は受動的になりすぎているのです。

自分を重ねすぎた他者がどのように行動するかによって影響”される”
自身の力ではどうにもできないと感じる世界によって圧倒”される”
「自分と世界との境界を見誤っている状況」を説明するとき、その多くは受動態で表現されます。

物体、時間、存在、あらゆるものに対して「与える」という動詞を使うことができます。
加えて「与える」ことは暗に与えられる側を想定しています。「自分が、世界に、〜を、与える」という具合に。
言葉あそびではありません。与えるという行為を実行するとき、そこには必ず「誰に」と「何を」が存在しているのです。
そして「今日自分が何をしたのか」と振り返るとき、同時に「誰に」と「何を」の存在が頭に浮かんできます。

与えるという行為によって、我々は能動的に世界と関わることができるようになります。
与えるという行為のたびに、我々は自分自身を認知できるのです。
言い換えれば、自分と世界との境界をニュートラルな状態に戻すことができるのです。