30日間アウトプットチャレンジ

これは30日チャレンジの最終日(2019/10/09)に書かれた文章です

エンジニアたるもの常にアウトプットを心がけること。 たとえどれだけ小さかろうが常に世の中に価値を生み出し続けること。

ソフトウェアエンジニアとして働きはじめ、身の回りにいる猛者たちを見ていたら自然とそんな焦りを抱くようになっていた。 しかし、焦りは積れどなかなか行動に移せないまま、あっという間に2年が過ぎた。

これはやばいと本格的に悩み、同僚に相談したところ、「やるだけ」と一蹴されてしまった*1
単刀直入にやるべきことを伝えてくれた同僚には心から感謝している。 勢いそのまま、自分が一番怖いことを賭け、30日間のアウトプットに挑戦することをその場で約束した。 そしてまさに今日がその最後の30日目だ。

本文では30日間の挑戦から得た気づきを記したい。

(1) アウトプットのためのインプット 当然ながら毎日アウトプットを続けているとネタがなくなる。 今日書くネタがないと、つい過去の知識を引っ張り出してキレイな言葉で包装して済ませたくなる。 しかし、おそらく正常な感覚をもっていれば、すぐに”貯金を切り崩してる感覚”に陥る。

幸い、人間はそれが長く続かないことを知っているので、自ずと新しい情報を収集し知識の積み立て貯金をはじめる。 アウトプットのためのインプットが始まるのだ。 しかも、なかなかどうして、案外それで上手くいく。着想さえあればササっと情報を収集して、その日のアウトプットに繋げられるようになる。 このサイクルに慣れるまでが一番大変に感じた期間だった。

(2) その日のうちに読まれる「あとで読む」 アウトプットのためのインプットに慣れてしばらくすると、次は”着想集め”の作業がボトルネックとして目立ち始める。 型化されたインプット作業に慣れたとはいえ、一日のアウトプットに5,6時間はかけられない。そのため、”良い粒度の着想”が重要になる。 個人的な感覚だが、N番煎じのXXX使ってみた系アウトプットは貧相すぎるし、かといって複数ツールに横断的な比較評価を与える類のアウトプットはあまりにも時間がかかる。 これらの間に存在する”良い粒度の着想”を発見するのが思いのほか難しい。

着想を得るために便利なツールが「あとで読む」系のリストだった。 TwitterやMedium、Hacker Newsなど日常的に触れる情報の中には、その場では読みきれないが”あとで読みたい”記事や技術文書が溢れている。 30日チャレンジの間は仕事中に発見した技術や気になった情報などを書き留めて(タブに残して)おいた。 仕事を終えたあと、アウトプット作業を開始するときはこのリストが開始点となる。 おかげて仕事で役に立つ情報を対して効率的に収集、アウトプットに繋げることができた。

(3) オリジナルの難しさ アウトプットを続けていると「googleで調べれば手に入る程度アウトプット」の日もあれば、どこを探しても見つからない「自分の言葉だけで表現したアウトプット」の日もあることに気がついた。

もちろんオリジナリティが高いアウトプットができた日ほど満足度は高い。世の中に疑いようのない新しい価値を生み出しているのだから当たり前だ。 一方で、数分調べるだけで集められる程度の情報しかアウトプットできない日の気分は最悪だった。 残念ながら、そういった情報の価値はたかが知れている。たとえ何千字の文章を書こうとも、平均情報量は0に近いはずだ。

問答無用でオリジナリティは価値が高く、生み出すために大変な労力を要する(と少なくとも筆者は信じている。) それはポエミーな文章かもしれないし、体験・経験にもとづいた知見かもしれない。 共通しているのは、まだ言語化されていない概念・考え方を文字で表現するための”生みの苦しみ”を伴っているという点だ。 そうして生み出されたオリジナルコンテンツは長い寿命をもってインターネットに存在しつづける。 オリジナリティこそ本物になるための必要十分条件だ。

以上、30日間チャレンジから得た気づきを3つ述べた。

毎日アウトプットを何としても継続するために睡眠時間は削られた。大げさかもしれないが、家族に迷惑をかけたこともあった。 しかし、見返りとして獲得した知識と経験、自信は間違いなく支払ったコストを上回ってくれた。 興味がある方は是非挑戦してみてほしい。

最後になるが、30日間も毎晩メールが届く不思議な体験を協力してくれた同僚には心から感謝している。 ちなみに、「自分が一番怖いこと」は尊敬する人間から失望されることだった(有言不実行は筆者がもっとも嫌いな行為。) 30日間やりきった今、明日からは堂々と存分に睡眠時間を確保しようと思う。

*1:同僚は親身になって筆者の状況の理解に努めてくれたし、発言も「(おれ=同僚の場合は)やるだけ」という文脈で発せられたものだ